昭和40年01月18日 月次祭
椛目で、信心のおかげを受けておる人達は、椛目だけしか知らないですね。言うなら、井戸の中のかわずである。なるほど、椛目の独壇場というところもやはりある。けれどもこういうところは全然欠けておるんだな、いや分かってないんだなと。やはり信心が成長するという事は、道理を分かっていくということだと思うんですね。心の中に「有難いなあ」と感じ、「有難いなあ」と感じるその「有り難い」というのが、だんだん深さ、広さを帯びてくる。
それと同時に、お道の信心が段々分かっていきよるという事だと思います。今日、私は、ま、いうならよその信心の例を聞いて、椛目の信心を検討してみたいとこう思う。今日ちょうど昼頃、下がっておりましたら、久し振りで、隈庄の上田先生がお参りしてみえられた。甘木の記念祭から、初めてでございましたでしょう。「日々、広大なおかげを頂いております」そして、おかげを受けておられることを、「私の信心が、だんだん成長してまいりますと同時に、先生から頂いておるという事を。
現在もやはり、いよいよ守らせてもろうて、それが垢抜けしたものになっていかなければならんと心掛けております」と。「朝、御祈念に」最近のことだそうですけれども、「朝の御祈念が非常に多くなった。私が御神前に出る前に、もう十何人かの人達が見えて、お掃除を終わって、大祓をあげだした。みんなで。その大祓の声で目が覚めた。そして、あわてて御祈念をするというように、この頃はもう信者に気合を入れられるぐらいなおかげを頂いておる。
お供えなんかは、もう本当にま、いうなら椛目流におかげを頂きました。隣接教会の先生方がたまがられます。」あの辺では、木山の教会が熊本一だそうですね。お供えなんかでは。けどもこの頃では木山を凌がれる。「この頃から、木山の先生がここ辺のほめ言葉・・・??家族のものに言ったげなたい。?ほどに、おかげを頂いております。この元旦祭などは、もう先生、母が」御両親とも病気で休んでおられますから、「母がやっとお広前に出ましてから、御神げんところ、先生殿を拝ませて頂いてから。
もう本当に先生、あんたが一生懸命修行してくれるけん、おかげ頂いて、と言うてからというて泣いて喜びました。かつて今まで、教会にこういう御比礼が、御比礼というか、お供えならお供えでも多いという事がなかったという。」「それで、私がお導きをしております先生方なんかでも、やはり私の流儀を伝えさせてもらいますと、みんながそういうおかげを頂かれます。ここに来なさる先生ちゃあ、みんなもう、洋服がけやら軍服姿で御結界に座っとらっしゃった先生ばっかりでしたけれども。
この頃は、ちゃっと紋付き羽織袴で、みな白足袋をみんな履かれます。あんた、白足袋履きよるの、ち言うてから、皆に申します。この頃は、先生が言われたように「すわり蕪」にならにゃいかん、とこう思う。もうよそには旅費やら、切符まで同封してから、お話しに来てくれ、と言うところがございますけれども、私は絶対、御結界を動かないことにしております。そしたてですね、その教会から団体でお話を聞きに来て頂きます。お話というよりも、私が頂いておるおかげを見てもらうという事が、一番皆さんが喜んで下さる、とこう言う。
先日も岱明(たいめい)教会の、目の悪い先生ですね、所へちょっと用事があって参りました。「あんた、ここんぎ、いっちょん【 】じゃないか。そうそげんところ先生の言いなさるだけにはいかんたい。いんや、そおかげ頂くもんか」というてです、そりゃそんならそげんせなこて、そのとおりの、言う、次々参ってくる人達が、一人一本ずつ御神酒を持ってきよる。四本も御神酒を持ってきた。続いて。岱明の先生がたまがってしまってから、「こんやっぱあ、おかげちゃあ」しかもですね。
その日頃御神酒でもお供えする人じゃない人が御神酒のお供えを持ってくる。神様がそういう印を見せて下さるというだけでも有難い。昨日、秋永先生がある教会に行かれて、椛目の話を一生懸命なさった。半信半疑で聞いておられた先生が、「ハァア、そうですか。そんなに」ほんとに有難がって聞かれた。ほんとに言うなら、そん時、後から話を聞いたんですが、たまたま参ってきた信者が御神酒を一本持ってきたち。「どうですか、先生」ちゅう訳なんですね、秋永先生。
本当にお月次祭に御神酒一本のお供えがない教会にです、そういうような、そういうようなおかげというのはですね、頂かれるという事。まあ、そういうようなお話をされてからでございました。最近では、信者が段々おかげを頂いて、ぐんぐん育っていくという事、ね。先日は信者がある難儀な問題をお願い、難儀な問題というか、試験の問題なんですね。初めから出来とるようなことであったけれども、神様にお願いをしてという事であった。ところが、その見事に落第して出来なかった。
そしたら、その信者がですね、御神酒を一本持ってきましてからですね、「先生、先生ががっかりしとんなさいましたけん、御神酒なっと飲んでから心を慰めて下さい」ち言うて、お供えを持ってきた。どうでしょうか、ここんにきから、椛目の信心を稽古しなければいけないと思いますね。せっかく、先生が一生懸命お願いして下さったのに、おかげ頂けなかった。先生のほうががっかりしとんなさる。先生、御神酒なっと頂いてから、まぎらかして下さいと。
こういう所が、親が子のことを思い、子が親のことを思いという事ではなかろうかという話をなさった。椛目の場合、もちっと深いと思うんですね。その点、いかがでしょう。ま深いかもしれん、また浅いかもしれん。自分の思いにならなかったら、先生がそう言うてじゃなくて、おかげ頂けなかったとして、言わば、お礼参りをしない人もある。かと言うて、それをおかげとしてお礼のお届けがある人もある。
椛目の場合は、その出来なかったその事に対してです、お礼の申し上げれるような信心が、日頃、教えられておると思うのですけれども、皆さんどうでしょうか。これも神様のご都合に違いはない。桜井先生の言葉を借りるなら、「それも神愛」。そうなんだ。椛目で本当にけいこしとる人なら、そこが分かる。また、先生もその事でへこたれもしなければ、困ったとも思わない。それこそ、私もお礼申し上げるような事だ。
その程度か、でなかったら、ぐっと落ちてです、お願いしとったばってんおかげ頂ききらじゃったと。お願いしたっちゃ同じ事、というような程度で済ます人もある。これはもう椛目の信心の程度から、ずっと落ちておる信心であると思わなきゃならない。こんな話をしておられました。甘木の初代が、ある教会の先生が親教会との折り合いがうまくいかないと。それで甘木の先生に訴えてお伺いされた。その時、甘木の先生が言われた。「背中をたち割られてから、その背中が痛む。
それが癒えて、ひとつの傷になる。背中なら背中を割られて、それが治ってもそれがひとつの傷になる。○○先生、あなたは親教会に、そういう傷の痛みを感ずるくらいに御用を頂かれたことがございますか」ちゅうて仰った。「私も親教会に御用させてもらいよります。けれどもです、いうならそのたびに御用を頂いたために、痕(あと)が痛むくらいなです、思い切った御用をなさったことがありますか」「先生、お悪うございました」と言われたという話です。
そういう一生懸命の御用も頂かずしといて、親が分からん、親が認めてくれないというのはおかしい。一生懸命の事をさせて頂いてから、その後のことだと。今日、そんな訳で、もう朝から、これはもう私は、最近ある、最近というか、いつものことですけど、有難いと思うですね。まあ、これが去年あたりだったら、月次祭の前というたら、本当にあれやらこれやらの、勝手のほうではお野菜でもかつがつといったような状態の時に、この頃は遠方からのお参りがある。
昨日も上熊本から一連れ、それから伊万里からも一連れ。今日も熊本の方の二本木のほうから、それから福岡。または、伊万里のほうからも今日。もう朝からずっと、お参りが続いとった。ちょうど昼にお参りをしあわせておった者だけでも十何人あった。その後も二十名近くあった。それに家族のものを合わせて三十名からの者が毎日そうしてお賄いを頂いておるという事。
今日はまあ、今日は月次祭なんでんかんでんひやがってしもうとるもんの。私が修行中のことを偲んでから、ひとつ皆さん、ご飯を頂いて下さい。おからが出ておったから、おからだけかと思いよったら、それどころじゃない、すきやきども出ておった。買うということはいたしませんから、誰かがやっぱお供えに持って来ておることは間違いないのです。潤沢に限りなく。そしておかげを頂いておるという事。
そういうおかげがです、皆さんの所にも流れて行くという事。同じようなおかげが限りなく頂かれるという事。そういう意味のことをです【よしだ? 】先生の場合、ひとつ考えてみなきゃいけないという事。お参りをするだけが能ではないという事。神饌物も先生方がそれぞれに御用を頂いとられますから、遅うなりましてから、お祭りもいつもより少し遅れました。というような訳でございましたけれども、神饌室に入らせて頂きましたら、重ね餅と果物が、またネズミにかじられとる。
私はこの頃からその事を一生懸命に思わせて頂きました。これは私の信心が間違うとる。神様にお詫びさせてもろうたり、改まらせて頂いたり、おかげで神饌室にも、神前にもネズミがうろうろせんことなっとった。ところがまた荒らされる。これはまた神様こちらの信心が間違うとるなあと思うてから、先生そのことを思わせていただいておりましたら、『ラムネを頂きよる』ところを頂いた。一遍にガブガブ飲んだらむせる。
きりをつけて飲むから、玉がひっかかる所がある。その少しずつ適量を飲むのである。おかげというものはね、そう一遍にスキッとして頂けたら、そりゃ良かろうごとあろうけれども、それでは本当のおかげにならないという事。この事はスキッとおかげを頂いたけれども、その次にはまたスキッとしない問題が必ず起きておるという事。そこにお互いが神愛を悟らなければいけない。より良い信心を。
一家中の中の一人がどんなに熱心な信心をさせて頂いても、家族の者が信心がなかったら、よしおかげを頂いても、信心のない、信心の薄い者が、またおかげを落とすような元をその家の中に作っていくのである。神様がいよいよ本当のものを分からせて下さる。次に頂いたら、家族の者とここの先生方を頂いた。ハハア、今度のネズミがかじりよるとは先生方の不調法だなと私が思うた。
こりゃ家族の者の頂き方がまずいのだなと私は思うた。例えば、神饌室の責任者である久保山先生が、先生をはじめ他の先生方があまりにも神饌物、神饌室がお粗末。私はあの時分、たいへん厳しく申しましたけど、とにかく勝手の布巾やら神饌室の布巾やら、御霊様のものやら神様のものやら、まぜくるような事でおかげが頂けるはずがないという事。ひとつこの辺を皆さんに、今日は分かってもらいたい。
先生方は思い当たったにちがいない。ハハア、またネズミが出てきたから、先生の信心が間違うとる、と思いなさったにちがいない。どうでしょう。私だけがりっぱになって、先生方がひとつも改まらない、神饌室を承っておる先生方がろくそにしておったんでは、いかん、やはりそこから引きずり落とされるわけなんですそうした限りない、例えば本当に毎日何十人のお賄いを神様がして下さるようなおかげを頂いておる椛目でです、家庭の者が、勝手の御用を頂いておる者が。
頂き方のお粗末御無礼やら、そういうような事が出来ずして、なら私の信心でどんどん、どんどん、限りなく下さったらどういう事になるかということ。ここにみんながです、いわゆる勢をそろえた信心がどうでも必要ということが分かるでしょう。ね。本当にそれを思うのです。先日、オレンジのお供えがいっぱい来とった。私は知っとった。果物かごの下に汚い紙が敷いてあったことを。その紙をひょっとひっくり返したぎり。お供えをしとった。その紙袋に放り込んだだけ。
こういう事ではとてもここが神饌のいわば室とは言えない。私の信心を中心としてです、私の信心につながる先生方が、家族の者がです、それに歩調の合うた信心に、そろうて初めて本当のおかげになった時がそれが本当のおかげ。おかげを落とさんで済むという事になる。家庭の事だって同じこと。夫婦や親子が勢をそろえて、心を合わせて信心させて頂いて、いわゆる分かるところが分からせて頂いて信心が進んでいくところにです、スキッとしたおかげに段々近づいていくことが出きる。
今朝の御理解の中に、私、御神前に出らせて頂きましたら、一番初めに頂きますことが『全山湯けむり』ということを頂いた。桜井先生が椛目に行くことを「お山に行く、お山に行く」と言われるそうです。言うなら信心のけいこに来るところは、やはりお山でしょうね。「全山湯けむり」これは私四、五日前の西日本新聞の夕刊でしたかね。半ページに写真入りで報道してあった。やまなみハイウェイのちょっと手前の所に筋湯という所がある。あの辺の一帯の山のことです。
その山の近所にいろいろ部落がある。その部落全部がたぎるようなお湯が、全山湯けむりが立っておる。実に壮観だ。特にそこの部落の方たちは全部その湯の恩恵を受けておるわけなんです。お風呂はもちろん、本当に一流ホテルのようなお風呂が作ってある。お掃除なんかは、ちょっと水でうめてから、【こくのう? 】の場合も、お野菜作りの場合も、お燗を付けるのも、皆そのお湯を利用しておる。炬燵なんかでも、ちゃっとそのお湯を利用しての炬燵が出来ておるという写真が出ておりました。
ですからね、例えば、耳納山に登ってです、そこを掘ったからというて湯が出てくるわけはないでしょうが。椛目では全山湯けむりが立つほどの、そういうようなもの、言うなら、ちょっとした壮観なものを感じるのです。昨日夕べ、東(ひがし)さんが参ってまいりまして、元旦祭の時のスナップ写真を持ってきてました。その中に、一番端から駐車場の方にずっと車が駐車しとる所を写真に撮ったのがありました。それこそやっぱりちょっとした壮観ですねえ。何十台かの車がずぅっと並んでおる。
ですから皆さんがです「全山湯けむり」というようなおかげを頂いておる椛目にご縁を頂いておられるのであるから、ここでお風呂に入らせてもらうとかここでお湯を一杯もろうて帰るとかではなくてです、銘々の家庭に銘々のお広前にそれを引いて帰らせて頂くということがです、どういうような事かと。吉田先生のそれなんかはお参りはないけれどもです、椛目流のそれを小さいパイプながら、引いて持って帰っておられるという事。そして自分の知っておるその教会にそれをやっぱり分けておられるという事。
設備は皆さんがなさらなきゃいけないという事。その設備をするという事がどのようなことか分からせて頂かなければならない。そしてたとえば今日の吉田先生?のお話の中からです、皆さんいろいろよその信心を聞かせてもろうて、ハハア、そういうような事が、言わばお湯を一杯頂いて帰るとか、ここで入るというだけではなくて、自分の家にもそのまま持って引いて帰られる、というおかげを頂けるのであるという事なのです。皆さん工夫をしなければいけないと思う。
今日はお土地のことで、中ん立っておられる方たちが入れ代わり立ち代わり今日見えられた。そういうような事が椛目で、今度椛目が移転するげな。あちらにお土地を購入しなさるげな。そこに又仮建築があるげなというぐらいな事では、どうでしょうかね。私ひとりの力では何故いけないのかという事が、さっきの話で分かるでしょうが。もちろん私の信心が中心になりますよ。神様がガクッと動きなさる事は私の信心ですよ。
どんなに信者がバタバタしたところで、私自身の信心が間違いなし、気感に叶わんものがあるならば成就することはありゃしません。と言うて、私の信心がどんなにたとえば神様に認められましてもです、ね、私がお願いさせて頂いた。神様がおかげを下さった。けどもまたさっきいう問題です。だから私だけで建ったお広前ではいけないことが分かるじゃないですか。またネズミにかじられるような事ではいかん。いわば全信者、全会員一家一同がです、そこん所に思いなし。
そこん所の信心がわからせて頂いて、帰依させてもらい奉賛させてもらい、思いを一つにして勢信心、勢御祈念が必要な時じゃなかろうかと私は思うんです。どうでしょうか。そのための御祈念をなさっている方があるでしょうか。その事ひとすじに思っている方があるでしょうか。総代幹部に任せず、皆さん一人ひとりがそういうところにタッチして、そして自分が話をするそういう意味じゃない。その事と一緒にです、ね。
例えば、御神前に、御神饌室にそれこそ不浄のない、ネズミの子は一匹入れないような神様の働きを頂かせて頂くという事が、ここの家族の者が、ここで御用を頂いとる先生方が、そこん所に実意丁寧の信心がなされて、そしていわばネズミの子一匹入らないという事になった時が本当のことになった時じゃないでしょうか。ハア、先生のおかげでこんな立派なお広前が建った。広前の建物は建った。ところがお参りする人はちょこっと。信者と先生との信心のあいよかけよの働きというものが出来ておらないから。
言わばそれは今日ネズミにかじられたようなお広前が建ったんじゃあ出来んと思うのです。後で切った傷口が痛むぐらいな、はずみすぎってから、な一生懸命の恩義を持って、親教会に尽くされたことがありますか、と甘木の初代がおっしゃったという事。今、椛目でそれをなさらなければ何時するか。今、発心しなければ、何時その事を発心するか。言うとるだけでは駄目。
十二月の頃は、お広前いっぱい朝の御祈念があった。十六日のご大祭を境にだった。ところが正月からガタッと減ってしもうた。ハア、先生の信心がぼけちゃる。ここにネズミが出ることと同じでしょうが。それではお広前は成り立たない。先生と信者とがです、「親のことは子が思い、子のことは親が思い」というような思いがです、交流して、そこに一生懸命のものが成される時、その「全山湯けむり」の中からです、自分の家にも風呂もできた、炬燵もできた。
一切がそのお湯の恩恵に浴するような設備が整うたというのは、そういうような意味あいにおいての一生懸命な信心が出来る時じゃなかろうかと私は思う。どうでしょうか。そりゃ椛目のことじゃけん、有名になったらバタバタ話が進んで、バタバタ立派なお広前が建つが。建ちもしましょう。けれども建っただけではいけないでしょう。ね。神様は聞いては下さったけれども、またひと月次祭、ふた月次祭していくうちに、またネズミが出る。ハア、先生の信心がこの頃間違うてござるばいの。
というような事ではなくてですたい、私の信心の焦点もそこに置くと同時にです、神饌のものがどういうような性質のものか、どういうような取り扱いをしなければならんのか。お下りをどういうような思いで頂かなければならんのかという事を家族の者が、例えば、それに関係しておるみんながです。そして初めて神饌室にも御神前にも、ネズミの子一匹不浄をかけるようなことがなくなったというようなおかげをです、今度の新しいお広前の上にも、そういうようなおかげでなからなければならない。
そういうような事が、皆さん分からせて頂くということがです、私は信心が分かっていくという事じゃなかろうかと。分からせて頂いたことが行の上に現わされる事を修行というのじゃなかろうかと。修行の時に頂けるおかげがです、お道で言うところの「あいよかけよ」の働きから生まれてくるおかげではなかろうかと。家族が勢をそろえて、お広前の信者一同が、それこそ「貧者の一灯」的な思いが込められて、そこに焦点を置いての修行がなされて、先生に総代幹部がついて行くなら。
総代幹部に他の会員の方たちがそれにまた一緒についていって、信心がなされるというようなおかげを頂かなければならない。出来上がったその後がさみしい。その後がまた不浄がかかる、ネズミがかじるようなお広前が出来たんじゃあいけないでしょう、皆さん。ね、家族の者も、その関係の先生方も、会員一同も、打って一丸となって、お粗末御無礼のないような有り方に、そういう信心にならせて頂いて、「全山湯けむり」の恩恵に浴したいというのでございます。
(終わり)